ミクロネシアの神話と伝説~ナン・マドールの歴史と伝説

【ナンマドールとは】
ミクロネシア連邦の主島、ポンペイ(ポナペ)島の東南に、ナン・マドール(現地語でナンマトル)という古代の巨石海上遺跡があります。その広さは70haにも及び(東京ディズニーランドが84ha)玄武岩で作られた大小92の人工島で構成されています。(下記参照)


1931年、J・チャーチワードは彼の著書「失われたムー大陸」の中で、ナンマトルこそが、12000年前に水没した巨大王国の聖都であると主張したことから、その名前は一躍有名になりました。

さすがに現在では、ムー大陸説を考古学的に支持している人はいないようですが、西暦1000年~1600年頃、ポンペイはシャウテレウル王朝の時代、ナンマトルはこの時代の首都として機能していたのは確かなようです。


【ナンマトル建造の伝説】
写真を見てもわかるように、この海上遺跡は推定数百万本に及ぶ、玄武岩の六角柱が精密に組み合わされてできています。 この驚異的な事業については、次のような伝説が残っています。

-------
ある日、2人の兄弟オロシーバとオロショーバが、大勢の家来を引き連れて、西の島カチャウベイティ(太陽の沈むところ)からカヌーでやってきた。これは、シャカレンワイオから、サブキニイをリーダーとする16人がやってきて、小さな陸地に石を積み上げてポンペイ(石の祭壇の上、という意味)島を作ってから数えて7回目の航海であった。

ポンペイには政治のシステムが無いことを知った兄弟は、政治・信仰の中心地を作ろうと決意した。どこにするか考えた末、最初は北の端ソケース半島に作り始めた。(実際に石組みが残っている)が、工事が進むにつれて、北西風の荒波のため、適地でないことがわかってきた。

その後Nett地区、U(ウー)地区、と場所を変えるがうまくいかず、4番目にやっと現在のマトレニーム地区に理想的な地形を発見した。チェムエン島と沖の珊瑚礁との間の、いくつかの砂州を含んだ、波の弱い礁湖(ラグーン)こそが、巨大工事に最も適していたのだ。

それでも工事は潮流に阻まれたりして難航したが、神々の力を借りて工事は続行された。「オロシーバが呪文を唱えると、次々に岩が空を飛んできて、自ら、決められた場所に落ちていった」と言われている。計画が大きすぎて兄弟の家来だけでは手に負えなかったが、やがてポンペイ中の人々もみんな協力するようになった。

残念ながら兄のオロシーバはナンマトルの完成を待たずして亡くなってしまった。彼の没後、弟のオロショーバは我こそが全ポンペイの王なり、と宣言し、シャウテレウルの称号を受けて本島にマトレニーム、ソケース、キチの3州を設定してこれに君臨した。そして王位継承の系統が定められ、16代のシャウテレウルたちが全ポンペイを治め続けた。

最後の王、シャウテ・モイの時代、ポンペイの神のナン・シャブエが幽閉され、コスラエに逃げる。悪政を知ったナン・シャブエの息子イショケレケルは打倒シャウテ・モイに立ち上がり、333人の兵士と共にナンマトルに攻め込み、ここにシャウテレウル王朝は滅亡したことが知られている。


【シャウテレウル王朝の崩壊後】
勝利したイショケレケルはナンマトルと全ポンペイを支配する大酋長となり、ナンマルキ、と呼ばれました。イショケレケルの死後はカリスマがいなくなった結果、マトレニームの他ウー、キチの2地区にもナンマルキが立ち、さらにドイツ統治時代にソケースとネットの2地区も追加されて、21世紀の現在、ポンペイには5人のナンマルキがいます。

しかし、なかでもマトレニームのナンマルキはイショケレケル直系のナンマルキとして一番力が強く、イシバウ、と尊称されています。「ニンニンナンマルキ」と呼ばれる貝製の、古代から引き継がれた首飾りを付けることができるのも、マトレニームのナンマルキに限られているのです。

このように、ナンマトルは代々マトレニームのナンマルキの住居でしたが、200年ほど前からは、生活上の不便からか、放棄されて現在に至っています。ただ、ナンマトルはあくまでナンマルキの私有地であるため、現在私たちがここを訪れる際には、かならずナンマルキの代理人宛に直接、入場料を支払わなくてはいけません。

ページトップへ戻る