ハワイの神話と伝説~ハワイ王朝~賢王カメハメハ3世

摂政カアフマヌの没後、カメハメハの娘キナウを新クヒナヌイ(摂政)として、カメハメ ハ3世の時代がはじまります。ハワイ王国は、この時点ではまだ古典的な絶対君主制であ り、西欧諸国からは「野蛮な王国」という目で見られていたようです。カメハメハ3世は 大変な苦労の末にハワイを立憲君主国にし、さまざまな法制度も導入してハワイを近代国 家の1つとして立ち上げ直したのです。ここでは、カメハメハ3世の残した功績を分野別 に解説していきます。

【政治改革】
1839年、イギリスのマグナカルタを手本にした「権利宣言」を行い、翌1840年に は憲法を公布、ハワイで立憲君主制度が成立したのです。1845年には第1回議会も開 かれます。しかし、近代化のための西欧制度導入を急いだために、ハワイ国内での人材育 成が間に合わず、たまたまハワイにやってきた白人の知識人階級を、無謀とも言える抜擢 でハワイ王国の要職に採用していきました。例えば、アメリカからはじめてハワイにやっ てきた弁護士はいきなり法務大臣に。2人目の弁護士は最高裁判事に。医師は内務大臣に、 など、枚挙にいとまがありません。

1852年には合衆国憲法をモデルとして憲法改正されました。奴隷制の禁止なども盛り 込まれています。(ちなみに合衆国で奴隷制が禁止されたのは1863年です)

【土地制度】
ハワイにはもともと土地の個人所有という概念は無く、敢えて言うならば土地はすべて王 または酋長のものであって、人々はアフプアアでの自給自足経済で暮らしていました。 1848年に制定されたマヘレ法(分配という意味)では、土地を所有物・財産として見 る西欧型の考えが導入され、まずハワイの全ての土地はカメハメハ王と245人の族長の 間に分配されました。また、王の領地の大半はハワイ政府の所有する官有地とされ、結果、 王領23.8%、官有地37%、族長領地39.2%という割合になったのです。

このマヘレ法はハワイの社会制度を根底から揺るがすもとにもなった法律で、グレート・ マヘレとも呼ばれます。

1850年にはクレアナ法(土地権)が制定され、庶民でも、自分の小作農地を請求すれ ばそれを自分の土地として所有が認められることになりました。これは画期的ともいえる 法律であったのですが、広報不足や手続きの複雑さで、成人男子の3割しか請求せず、請 求できた土地を合計しても、ハワイ全土の1%程度でした。

一方、同年、外国人による土地私有も認められたため、法律に強く、ある程度資金もあっ たハオレ(白人)たちは、対外債務を抱えていたハワイ政府から、格安で王領地や官有地 の売却を受け、1862年までにはなんとハワイ全土の75%がハオレの個人所有になっ ていったのです。

【外交】
1839年、ハワイにおけるプロテスタント重視に不満を抱いたカトリック国のフランス が、ハワイに対して、武力を背景に5か条の要求をつきつけ、さらにはフランスとハワイ の間に、関税自主権の無い不平等条約を締結させます。(各国との不平等条約のはじまり)

1843年2月には、今度はイギリスが、といっても、ジョージ・ポーレット卿という男 の独断であったのですが、ハワイに対して、イギリスに暫定的に領土を割譲するよう要求 し、カメハメハ3世をラハイナに強制隠居させてハワイ王室にイギリス国旗を掲げさせる という事件が起こりました。

この事件は7月に来航したイギリスのトーマス少将が、ポーレットのやりすぎを認め、イ ギリス女王はハワイを併合する意思など無いことを確約して解決しましたが、瞬間的とは いえ、ハワイ王国が消滅していた時期があったのです。

カメハメハ3世は無事にオアフに戻り、1842年に完成したばかりのカワイアハオ教会 で、今でもハワイ州のモットーとされている「土地の命は正義と共に生き続ける(ua mau ke ea oka aina ika pono)」という有名な演説を行います。また、今でもホノルルの中心 に残るトーマス・スクエアは、このトーマス少将の名を記念したものです。

また、この事件に先立つ1842年、カメハメハ3世は欧米諸国に対して、ハワイ王国を 承認してもらうべく特使を派遣していました。まずアメリカのタイラー大統領が承認した のを皮切りに、43年11月には英仏両国が共同宣言というかたちで承認します。

1844年にはイギリスとの間にも不平等条約を結ぶことになりますが、1849年にア メリカとハワイの間で、はじめての「平等条約」を結ぶことができ、これを根拠として、 1851年にはイギリスとの間で条約改正、ついでスウェーデン・ノルウェーとも平等条 約を締結していくことになります。

【教育】
1820年に宣教師が来航するまで、ハワイには文字というものすら存在しなかったので すが、わずか30年後の1850年には、ハワイ王国は世界でも有数の識字率を誇る国へ と変容していました。

1831年に、ロッキー山脈より西で初めての学校といわれるラハイナルナが開校、34 年には太平洋地域で初めての新聞発行(Ka Lama Hawaii)、1842年には王族の子弟の 教育のためのプナホウ・スクール開校、と、ハワイの教育水準は急ピッチで高まっていき ます。

1850年には、土地の5%を教育にあてるという教育法が成立、1859年にはついに 義務教育法が制定されるにいたりました。こうした、ハワイ住民の教育水準の高まりは、 ハワイ人の間に、キリスト教文化を身につけた「文化人」をも生み出すことになり、旧来 の伝統文化を貧しいものとして、ハワイ人自身によって伝統文化が否定されるという、皮 肉な側面も生みました。

1855年、激流を駆け抜けたカメハメハ3世は41歳の若さでこの世を去りました。

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