【星の羅針盤 ~伝統航海術の復活の試み~】
1970年代、ハワイでは、古代ハワイの伝統的な文化や技術を復興しようという、いわ
ゆる「ハワイアン・ルネッサンス」の機運が高まりました。
その一環で、古代のカヌーを再現し、失われてしまっていた伝統航海術を復活させようと
いう試みが次々と行われました。伝説のハワイイロアの時代以来、古代ハワイの人々は、
星を羅針盤として太平洋を自在に駆け巡っていたはずなのに、そういう技術が失われてすでに数百年が経っていたのです。
【ホクレア号プロジェクト】
ホク・レアとは、直訳すると「幸福の星」、うしかい座のアークトゥルスのことです。有名な考古
学者のベン・フィニーと、これまたハワイの神話や歴史画で有名なハーブ・カネ、そして
アウトリガー・カヌーの名手とミー・ホームズの3人が音頭を取って、ポリネシア航海協会
が発足しました。そして、船体こそグラスファイバー製であったものの、古代のカヌーと
全く同じつくりカヌーが生まれ、1975年3月8日、進水式が行われたのです。
しかし、ハワイでは星の羅針盤の使い手がもう誰も残っていなかったため、ミクロネシアのサタワル島から、現役の星の航海士、マ
ウ・ピアイルグが招聘されました。そして
1976年5月1日、ホクレア号処女航海。33日後には見事にタヒチのパペーテに到着
しました。タヒチでは、この伝統カヌーの到着は、統治国フランスを震撼させるほどの大
歓迎となり、軍隊が鎮圧に乗り出すほどの騒ぎになったのです。
ちなみに、ミクロネシアのサタワル島の伝統航海術は非常に優れたもので、マウはハワイやタヒチの海域など全く知らなかったにも
かかわらず、星だけをたよりに、全く迷うこと なくタヒチに到着したのです。1975年には日本で沖縄海洋博が開催されましたが、こ のとき
にもチェチェメニ号というカヌーが、サタワルから沖縄まで、星を頼りに航海して 来たのです。
ただ残念なことに、タヒチに向けての航海では船内で人間関係のトラブルがあり、クルー
に愛想を尽かしたマウは、帰りの航海には参加しませんでした。しかたなく、帰りはコン
パスと六分儀を使用してなんとかハワイに戻ったのです。しかし、マウはもうひとつ大切
な仕事を成し遂げました。後継者の育成です。マウ直伝で、ナイノア・トンプソンが星の
航海術を学んでいたのです。
【ハワイイロア号とマカリイ号】
1989年、ビショップ博物館の協力の下、ナイノア・トンプソンらが中心となって、ハワイイロア号のプロジェクトが発足しまし
た。今度は、船体もグラスファイバーではなく、
木製で、帆もラウハラ編み、正真正銘、古代のカヌーを再現しようというこころみです。
しかし、困った問題がありました。そもそもハワイにはもう大きなカヌーが作れるような
巨木が残っていないのです。そこに、プロジェクトのうわさをきいた、アラスカのトリン
ギット族から、巨木の寄付の申し出がありました。ナイノアは早速アラスカに飛びます。
彼らは樹齢400年、切り出すと100トンにもなるシトカスブルースを寄贈してくれる
というのです。しかし、話をよく聞いたナイノアは、いったんこの話を断ってしまいます。
なぜならば、トリンギット族の伝統では、シトカスブルースの木は、1本1本が彼らの兄
弟であり、いくらハワイの伝統復活のための重要な意味があるとはいえ、単純に寄贈を受
けるというのはあまりにも申し訳ないと判断したからでした。
ハワイに戻ったナイノアは、考えた末、コアウッドの植樹プロジェクトを立ち上げました。
病んでいたハワイの大地にお詫びをし、トリンギットの人々の好意を、「どうもありがと
う」で終えるのではなく、ハワイでの、新しい生命の誕生のきっかけになるものとして位
置付けて、その上で、彼らの寄贈を受けたのです。
1993年に進水式を迎えたハワイイロア号は、95年、トリンギットの人々への感謝を
をあらわすため、南ではなく、北のアラスカに向けて、ホクレア号と共に旅立ったのです。
1995年には、3隻目のカヌー、マカリイ号が完成しました。そして、伝統航海術をハワイに復活させてくれたマウ・ピアイルグ
をゲストに呼び、ハワイから、サタワル島に向
けて航海したのでした。マカリイ号は帰路、グアムやサイパンにも立ち寄り、そこでも
熱狂的な大歓迎を受けたということです。