前章で、カメハメハ一世(大王)がハワイ諸島を統一国家としてまとめあげるまでの道の
りについて解説しましたが、ここでは、カメハメハ大王自身のプロフィールについて解説
します。
英雄にはありがちですが、カメハメハにも出生伝説というものがあります。母、ケクイア
ポイワは、妊娠中しばしば「鮫の目を食べたい」とうわごとをもらしていたといわれてお
り、カメハメハ誕生の日には、空に大きなほうき星(彗星)がかかったといわれています。
これらの兆しを不吉な前兆、すなわち、「王を食べてしまうものの誕生」だと考えた神官
たちが当時のハワイ王アラパイに上奏。まだ生まれたばかりのカメハメハに対して、アラ
パイ王から暗殺命令が出されたのです。さいわい、養父ナエオレがカメハメハをかばって
屋敷から連れ出し、人知れず育てて10歳になったときにはじめて嘆願して許された、と
いう経緯があるのです。
また、有名なナハ・ストーンの伝説があります。今でもハワイ島ヒロの図書館前に安置さ
れている3.5トンもある巨岩には言い伝えがあり、この岩を持ち上げた者は天下を取る
といわれていました。また逆に、チャレンジして失敗したものは死が与えられる、という
いわくつきの岩だったのです。ところが若干14歳のカメハメハがこの岩にチャレンジ、
見事に持ち上げたというのです。
カメハメハ像についての言い伝えもあります。英雄カメハメハに憧れにも似た尊敬をいだいたのが、後のカラカウア王です。カラカウアは、カメハメハを記念するブロンズ像を建てようと決心、1879年に、アメリカ人の彫刻家トマス・グールドに発注します。トマスが作った彫像をもとに、ローマで鋳型が作られ、パリでブロンズ像が仕上がりました。
ところが出荷後、ブロンズ像を載せた船が南米フォークランド沖で遭難、像は海底深くに沈んでしまったのです。
像は作り直しとなりましたが、幸い、ローマに鋳型がまだ残っていたため、それをもとに再度ブロンズ像が作られ、1883年以来現在でもイオラニ宮殿の前に安置されています。
ところが。1912年のことですが、海に沈んだはずの1体めが出現したのです。漁師の網にかかっていた、とか、像みずからが歩いてきたなど奇妙な言い伝えがありますが、とにかく、本来の1体めは、ハワイ島のカメハメハ大王生誕の地、カパアウに安置されるこ
とになったのです。
また、1969年にイオラニ宮殿前の像から再度鋳型が作られ、それをもとに複製された像が、アメリカ国会議事堂に飾られています。要するに、世界中に「全く同じ形の」カメ
ハメハ大王像が3体存在するのです。(もう1体、ハワイ島ヒロにもカメハメハ像があり
ますが、これは別の鋳型で作られたものです)
カメハメハは、身長約2m、武術にも知力にもすぐれた、まさにカリスマ中のカリスマだったようで、カメハメハの没後、ハワイは西欧諸国からさんざんに干渉を受けることにな りますが、カメハメハ存命中は、諸外国も遠慮気味だったといいます。1816年、ロシア海軍と共に来航したドイツ人船医オットー・コツェブーは、カメハメハについて、「彼の政府は治安維持、官僚の教育、有益な技術の導入に非常に巧妙であり、彼のあとを継ぐのは容易ではないと思わざるを得ない」と感想を書き留めています。
実際、対外的にも、カメハメハはイギリスのジョージ3世宛てに親書を送るなど、親英政策をとりつつも、広く門戸を開いてバランスを取り、また、主として中国向けにサンダル
ウッド(白檀)を輸出してハワイ王家の財源の基礎も固めたのです。