ハワイの神話と伝説~ハワイ王朝~カラカウア王

ルナリロもまた後継者を指名していなかったため、王位は再び議会にゆだねられ、カラカ ウアとエマが激しい選挙戦を展開しました。立法府の議員による投票結果は、39対4で カラカウアが圧勝しますが、市民に人気のあったエマだけに、支持者が暴動を起こすなど、 初期の混乱もありました。

カラカウアは、前任者の轍を踏まないよう、即位後ただちに、弟のレレイオホクを後継者 として指名しましたが、77年にレレイホクが死去したため、今度は妹のリディア(リリ ウオカラニ)を指名したのでした。

メリーモナーク(陽気な王様)として有名なカラカウアですが、在任当時は在住外国人、 特にアメリカ系の財閥からの激しい圧力、西欧各国からの圧力、純粋ハワイ人人口の激減 など、気が遠くなるような重い課題でいっぱいでした。カラカウア本人も、自分自身が陽 気であるとは一度も思ったことがないそうです。

そんな中、カラカウアは外交官として、世界中の国を相手に積極的に動きました。特にア メリカに対しては、当時のグラント大統領と直談判し、互恵条約を取り付けることに成功 しました。この結果、ハワイからは砂糖と米が関税無しで輸出可能になり、逆にアメリカ の工業製品を無税輸入することとなります。

これは1876年のことでしたが、その影響で、ハワイでは、さとうきびプランテーショ ンを中心にアメリカ系の財閥が急成長しました。しかし1887年には条約更新の条件と してアメリカから真珠湾の軍事利用を押し切られ、カラカウアは売国奴という批判を浴び ることにもなります。

アメリカに対抗してハワイが生き延びるにはどうしたらよいか、というのがカラカウアの 終生の課題でした。そのプランの1つに、太平洋連合構想というものがありました。カラ カウアはサモアに使者を送って同盟を結び、両国を代表して、カラカウアが外交折衝にあ たるというプランを考えていました。残念なことに、これはアメリカの猛反対にあって実 現しませんでしたが。

カラカウアは「世界一周旅行をした王様」として有名ですが、この、1881年に行われ た、10ヶ月にも及ぶ前代未聞の「国王による世界一周」は、実はアメリカに対抗するた めの世界各国との交渉や、ハワイの労働力不足に対する協力要請など、深刻な理由がいく つもあったようです。カラカウアは日本にも立ち寄りましたが、当時の明治政府にとって カラカウアははじめての元首訪問であり、カラカウアを大感激させるほどの歓迎を行いま した。このときカラカウアが提案した、ハワイのカイウラニ王女と日本の山階宮定麿の国 際結婚は残念ながら実現しませんでしたが、1885年には、日本から「官約移民」がハ ワイへ労働提供に旅立つことになります。

また、カラカウアの時代、ハワイ人の人口激減とともに、ハワイの伝統文化はすたれてい く一方でした。これを憂慮したカラカウアは、自らペンを取って「ハワイの伝説と神話」 を著し、秘伝であった創世神話クムリポを公開し、また、それまで宣教師たちの圧力もあ って、公式には禁止されていたフラを、正式に復活させます。王直属のフラ・ハラウを作 り、洋楽ではロイヤル・ハワイアンバンドも編成、王みずからが作詞した「ハワイ・ポノ イ」という曲はハワイの国歌となります。(現在でもハワイ州の州歌)

1879年には、3年の年月と、当時のお金で36万ドルもの資金をつぎこんだイオラニ 宮殿が完成、現在、アメリカ合衆国に存在する唯一の宮殿となっています。カラカウアの 芸術・技術に対する情熱が結実したともいえる豪華な建造物です。イオラニとはロイヤル・ ホーク。王家の鷹という意味で、ハワイの紋章にも使われています。
1883年に、ここで盛大な戴冠式が挙行され、また、1885年には王の生誕50歳を 記念した大祝賀会が開かれたりもしました。

こうした、カラカウアの一連の行動は、ハワイ・ナショナリズムの復興そのものであり、 アメリカに警戒心を抱かせるに充分でした。1887年にはアメリカ系の秘密結社「ハワ イアン・リーグ」が作られ、彼らは武力を背景として王党派のギブソン首相ほか政府要人 を次々と辞職させ、孤立したカラカウアに対して憲法改正を無理やりに承諾させたのです。

1887年に成立したこの憲法は、閣僚の任命や解任も王の権限ではできず、欧米生まれ の在住外国人に限って選挙権を認める、などの過激なもので、別名、ベイオネット憲法 (ベイオネットとは銃剣のこと。銃剣で恫喝されてできた憲法)とも呼ばれています。

このようなアメリカ系財団の横暴に対して、1889年、ウィルコックスが組織した義勇 軍が反乱を起こします。反乱は鎮圧されたものの、ハワイ人だけではなく、イギリスやド イツ系の住民にも反米感情が高まり、翌1890年の総選挙では、王党派が大勝すること になります。ベイオネット憲法の破棄も充分に検討できる素地が作られたのですが、いか んせん、カラカウア本人が病で倒れ、サンフランシスコで療養することになってしまった のです。

カラカウアはそのままサインフランシスコで帰らぬ人となってしまいましたが、状況が状 況であっただけに、毒殺されたのではないかという噂が絶えなかったということです。

ページトップへ戻る