ハワイの神話と伝説~ハワイの歴史~ハワイ産業史

19世紀中頃から、太平洋戦争の頃まで、ハワイの歴史を牛耳ってきたのは、良くも悪くも、強大な経済力を背景としたアメリカ人勢力でした。こう書くと、「帝国主義的な植民 地支配」というイメージになってしまうのですが、ハワイの場合は、若干、事情が違いました。支配者であったアメリカ人達は、最初から、経済力を持った支配者として乗り込ん できたわけではなかったのです。

 のちにハワイの「ビッグ・ファイブ(5大財閥)」と言われるようになる白人勢力の起源は、1820年、高邁な理想を掲げてボストンからハワイにやってきた宣教師団に端を 発します。彼らは小さな船「タデウス号」で、嵐の南米ホーン岬を越え、原住民を教化すべく(それはそれで偏見という話もありますが)やってきた人達でした。また、宣教師以 外にも、ハワイで一旗揚げよう、と目論んで渡ってきた商人や船乗りなどを起源に持つ財閥もありますが、いずれにせよ、当初、「経済力」などは無いに等しい状態でした。

その彼らが、あるものはさっさと聖職を放棄してビジネスマンとなり、あるものはハワイの王族に取り入りながら土地を入手して、徐々に経済力をつけていくのですが、ある意味 で、彼らも「ハワイを故郷とするハワイ人」ではないかと私は思うのです。ハワイのネイティブからすれば「よそもののハオレ」には違いありませんが、彼らは「一旗揚げて本土 に帰ろう」というつもりはさらさら無く、本土からの企業進出、などに対しては「ハワイ人として」戦っていたようにも見えるのです。

もちろん、1894年、「ハワイ共和国」が彼らの手によって成立したのは、「ハワイの独立を守る」為ではなく、アメリカ合衆国が素直にハワイを併合してくれなかったから、 という消極的理由によりますが、併合後も彼らはハワイに土着し、功罪ともどもありながらも、21世紀の現在では、彼らの子孫はハワイの伝統を復活させる「ハワイアン・ルネ ッサンス」のリーダー、パトロンとして活躍しているのです。

ここでは、ハワイの基幹産業の変遷を眺めながら、「ビッグ・ファイブ」が成立していくまでの歴史を簡単に記します。(西暦表示は、厳密なものではなく、あくまで目安です)

サンダルウッド(白檀)貿易時代(1790頃~1830頃)

クック来航以前は、ハワイでは、漁業やタロ栽培などの農業を中心とした、完全な自給自足状態で、 当時、推定で30万人の人口がいたと言われています。(現在は120万人)

外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし、 莫大な富を得て政権の基礎としました。白檀(びゃくだん:サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の 原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされたのです。

1815~26年が最盛期でしたが、乱獲激しく、サンダルウッドを見つけるために山を焼き払う (サンダルウッドは香りでわかるので)、などという無茶をしていたために資源が枯渇し、間もなく 貿易は衰退してしまいました。

ただ、ハワイの白檀はこの時期に絶滅したように言われますが、現在は、自然に復活してきた木が、 探せば結構見つかるらしい、とのことです。


白檀のチップ。10g500円くらいで取引きされています。


捕鯨船寄港時代(1810頃~1880頃)

19世紀はじめに日本近海でマッコウクジラが発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになりました。彼らは3,4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出 航、そして9月頃には帰路再びハワイに立ち寄る、というサイクルだったということです。

 オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の1855年頃には年間400隻もの捕鯨船が来航したようです。捕鯨産業そのものには当時 のハワイ政府は関心が薄かったようで、「好きにすれば」という態度でしたが、捕鯨船団への艤装と食糧の供給、さらには捕鯨船員そのものの供給をまかなうことで、当時で年間 数十万ドル、という莫大な収入になったようです。

 しかしこれまた乱獲による資源の枯渇、石油の発見による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退していきます。1850年、ハワ イ王国の首都は、マウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルへと遷都されますが、ラハイナには今でも当時の面影を記録している捕鯨博物館があります。


さとうきびプランテーション時代(1835~)

概観

サンダルウッド貿易も、捕鯨業の寄港地ビジネスも、「産業」といえるほどの規模ではなく、ハワイではじめて「産業」 として確立されたのが、このプランテーション業でした。これによってハワイには莫大な収入がもたらされますが、 さとうきびプランテーションには 1:広大な土地と、 2:さとう1ポンドにつき1トンと言われる膨大な水、それに  3:安い多数の労働力が必須です。また、肝心の砂糖の消費先である米国への輸出に当たって、関税も大きな問題となります。

それぞれの問題が、1:ハワイの土地所有問題、 2:移民受入の問題、 3:伝統的なタロ水田の衰退、という社会問題と 深く結びついてくるのです。

1835

カウアイ島コロアにてウィリアム・フーパーがはじめて事業化に成功。

1848

マヘレ法施行(マヘレ、とは分配の意)。これによってそれまで事実上全て王家の持ち物であったハワイの土地が一般人にも所有できるようになり 、結果、白人支配階級による土地独占という事態に陥っていきます。

1852

白人がハワイにもたらした様々な疫病によってハワイの人口は激減しつつあったが、このための労働力不足を補うために、中国:福建省と広東省か ら初の移民受け入れ開始。
1881年、中国からの出国禁止令が出るまでに合計18、000人が渡来

1868

日本からも「元年者」と言われる移民153名が来航。

1876

米国・ハワイ互恵条約締結(カラカウア王)。これによってハワイの砂糖は無関税でアメリカに輸出できることとなり、さとうきび産業は飛躍的に 増大。しかし、見返りにオアフ島真珠湾の軍事利用を米国に許したため、これがハワイの軍事基地化の原点となります。

1885

先年、カラカウア王が来日したときの要請にこたえるかたちで、日本からの「官約移民」が渡航。1893年までに合計26回、約3万人が渡布。 1900年までにハワイ人口の40%を占めるようになります。
また、移民はアジアからだけでなく、マデイラとアゾレス諸島からポルトガル移民が12000人、また、数は多くはないものの、スカンジナビア、ドイツ、ロシア、プエ ルトリコなどからの移民もあったようです。20世紀以降は移民はフィリピン・ベトナムなどのアジア系やサモアなどの南太平洋系にシフトしていきます。

BIG5

この、さとうきびプランテーション産業によって莫大な富を築き、 少なくとも太平洋戦争まではハワイの隅々までを支配したのが、「BIG5」と呼ばれる5大財閥です。
 ・C・ブリューア社(現:ブリューア・アギノミックス)
 ・セオ・H・デイヴィーズ社(現:ジャーディン・マセソン)
 ・アムファック社(現:アムファック・JMB)
 ・キャッスル&クック社(現:ドール・フード)
 ・アレクサンダー・アンド・ボールドウィン社(現:CALIF)



上空から見た、モロカイ島のさとうきびプランテーション(1999)

  

パイナップルプランテーション時代(1901~)

概観

 さとうきびプランテーションに続く基幹産業として育ったのが、パイナップル・プランテーションです。パイナップルはさとうきびとは対照的に 、わずかな水で栽培でき、大規模な灌漑用水を必要としない、というメリットもあります。

1882

ジョン・キドウェルが南米より輸入してプランテーション開始

1901

オアフ島ワヒアワでジェームズ・ドールがハワイアン・パイナップル社を創設
ジェームス・ドールはハワイ共和国大統領となったスタンフォード・ドールの甥です。

1903

ハワイアン・パイナップル社の初収穫:1893ケース。
これが20年後には、280万ケース!となります。

1922

同社、ラナイ島を「まるごと」買い取り。売主はハワイ先住民ではなく、ボールドウィンという元宣教師の一族でした。

1940

このころ、同社のパイナップルは「全世界の生産量の80%のシェア」を占めていたそうです。


 現在、砂糖・パイナップルの両産業ともに、より人件費の安いアジア諸国などでの生産が主となっており、砂糖産業はすでにオアフ島とハワイ島では全面撤退。パイナップル産 業も、1994年の収穫を最後に、ラナイ島での生産を中止しました。ラナイ島は今では2つの豪華ホテルを中心としたリゾート地として生まれ変わっています。

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