
by William Hodges |
1779年、前年にオアフ・カウアイ島を「発見」したクックはハワイ島を訪れます。来航時、ハワイ島ではマカヒキ祭という、収穫の神ロノの祭事の最中。ロノ神と間違われたクックは大歓迎を受けますが、その後、住民との小競り合いが元で殺害されてしまいます。
クック来航時、カメハメハは25歳。身長198センチの威風堂々とした若者でした。(ただ、当時、ハワイの人々は総じて背が高く、カメハメハの愛妃、カアフマヌも女性ながら180センチはあったということです) |

カメハメハ1世(1795-1819) |
カメハメハは、当然、実在の人物ですが、神格化された言い伝えも多くあり、その1つにナハ・ストーンの伝説があります。現在、ハワイ島ヒロの市立図書館前にある3.5トンもある巨石ですが、「ナハの石を持ち上げた者は天下を制する」(ただし、トライして失敗した者は頭を割られる)と代々言い伝えられてきました。この石を、15歳のカメハメハが見事に持ち上げた、と言われています。
カメハメハは、風貌、体力、武術、知力、そして人々の心を掴む力の全てに秀でた、まさにカリスマ中のカリスマであったようで、英語も話し、外交能力にも長けていたことから、クック以後、植民地化の野心をいだいて頻繁に訪れるようになった外国人達も、少なくとも、カメハメハ大王の存命中は、ハワイ王国に対してそれなりの敬意を払って無茶はしなかったようです。
1790 カメハメハに味方した女神ペレによるキラウェア大噴火
でハワイ王の後継を巡る宿敵キワラオ軍壊滅
1791 プウ・コホラ神殿完成
1794 マウイ王カヘキリ没
1795 オアフ王カラニクプレの軍隊をヌアヌパリ峡谷の戦いで殲滅
オアフ島ワイキキに宮殿設置。ハワイ王朝のはじまり
1810 カウアイ王カウムアリイ恭順
1819 没 |

カメハメハ2世(1819-1824) |
カメハメハ2世、幼名リホリホ、大王の長男です。カメハメハ大王には多くの妻がいましたが、リホリホはその中でも最も位の高い、「聖婚」で結ばれたケオプオラニの子供です。
ただ、大王はリホリホの政治能力に疑いを持っており、愛妃カアフマヌを摂政(クヒナ・ヌイ)として、自身の死後、政治の実権を握るような体制を作っていました。
カメハメハ2世の時代、1820年に来航した宣教師団の影響もあって、因習であったカプ(タブー)が廃止され、キリスト教が奨励される、など古代の慣習との訣別の姿勢が高まります。リホリホ自身は妻と共に外交訪問中のロンドンで麻疹により急死してしまいます。 |

カメハメハ3世(1825-1854) |
リホリホの急死後、10歳で即位。幼名カウイケアオウリ。政治の実権は当初はカアフマヌが握っていましたが、1832年にカアフマヌが亡くなった後、カメハメハ3世は、ハオレ(白人)のブレーンを多く従えて、数多くの政治制度改革を実施します。
1840年には憲法公布、1845年には第1回議会召集、と矢継ぎ早に近代化施策を実施。教育制度も充実して識字率は世界でも有数の国となり、対外的にも近代国家としての体裁が整っていきますが、要職のほとんどを白人が占めていたことから、ハワイ王国は政治的にも経済的にも「ハワイ民族の国」から遠ざかっていきます。 |

カメハメハ4世(1854-1863) |
西欧で極めて評価の高かったカメハメハ3世の跡を継いで、大王の孫の1人であるアレクサンダー・リホリホが4世として即位します。この王は親英的、というか、アメリカ系ハオレに対して警戒的で、英国国教会をハワイに招き、エマ王妃と共に入信します。
先代の施策は極めて革新的で評価は高かったものの、その結果として王権は弱くなる一方で、また、ハワイ人の、疫病に弱い体質も顕在化してきてハワイの人口減少問題は極めて深刻になってきます。 |

カメハメハ5世(1863-1872) |
カメハメハ5世、幼名ロト。カメハメハ4世の兄です。
この王もまたアメリカ嫌いで、弱体化した王権を強化しようと、カメハメハ3世のときに制定された革新的な憲法を廃止、より親英的であったため、当時、事実上ハワイの経済を牛耳っていたアメリカ人ハオレからの反感を買いますが、カメハメハ4世と同じく在位9年にして他界してしまい、カメハメハ王朝は途絶えました。 |

ルナリロ王(1873-1874) |
カメハメハ5世は後継者を指名せずに他界してしまったため、王位決定は議会にゆだねられ、ルナリ王子が王として「選出」されました。
彼もまた体が弱く、在位わずか1年あまりで結核により他界します。
|

カラカウア王(1874-1891) |
ルナリロ王もまた、後継者を指名せずに他界したため、再び王位決定は議会にゆだねられます。候補としてデイビッド・カラカウアと、カメハメハ4世の妃であったエマ王妃が熾烈な選挙戦を演じ、結果、カラカウアが辛勝しますが、エマ王妃派が暴動を起こして米英が鎮圧する、など初期混乱も見られました。
政治的には、親米的であり、1875年には米布互恵条約によってアメリカとの間の関税が撤廃され、さとうきびをはじめとするプランテーション産業がいっそう興隆します。その結果アメリカ人勢力はいっそう強まり、晩年は政治的には完全に無力となってしまいます。
しかしなんといってもこの王を有名にしたのは1881年、9ヶ月余りに及ぶ世界周遊旅行に出かけたということでしょう。独自の「太平洋連合構想」に基づいて、途中、日本にも立ち寄り、移民の要請と共に、姪のカイウラニ王女と山階宮親王の間の婚姻を提案したりしています。
帰国後はハワイナショナリズムの復興に砕身し、ハワイ音楽やフラの復興、カフナの復権などを行い、自ら創世神話「クムリポ」を出版したり、と、活躍しますが、「税金の無駄遣い」という批判も多かったようです。 |

リリウオカラニ女王(1891-93) |
カラカウア王の没後、後継者として指名されていた妹のリリウオカラニが53歳で王位に就きます。リリウオカラニは兄以上に反動的で。1893年、王権の強化拡大をうたった新憲法を無理矢理に施行、怒ったハオレ実業家達のグループによってイオラニ宮殿で幽閉されてしまい、ここにハワイ王朝は終焉したのです。
幽閉されたリリウオカラニは1896年、許可を得て渡米し、ワシントンで「ハワイの女王の手によるハワイの物語」を出版、王権の正当性を訴えます。また、1889年にカラカウア王がハワイ語で出版していたクムリポを英訳するなど、文化的貢献度の高さでは群を抜いています。有名な「アロハ・オエ」も彼女の作詞作曲によるものです。 |